こんにちは、設計担当の井上です。
今日は、須走地区の住宅を耐震診断してきました。
小山町長さんが、町内の旧耐震の住宅の耐震性を気にして、わが家の専門家診断の耐震診断率をあげようと、
予算を確保してくれました。
まずは、自分の住宅がどんな状況なのか判断して頂くことが大事なのかなと、自分も思います。
診断をしている、静岡県耐震診断補強相談士の建築士会のメンバーも真剣に相談にのってくれると思います。
今日のお宅は広かったので、3時間掛かってしまいました。
小屋裏の木材の状況はこんな感じです。
これ、わかります?柱が梁まで届いてないです。
だから、耐震壁として参入出来ません、たまたま、天井点検口の近くだったので、仕口確認出来て良かったです。
この壁算定していたら、数値が上がってました。
私が診断をしたお客様には、現場で撮った写真プリントアウトして、お見せするんですが、材木は健全ですよねぇ。
さすがに、ホコリはかぶっていますが上棟したそのままではないですか?
そんな説明をすると、ほっとしたって、耐震の数字が悪くても喜んでくれます。
そんな皆さんとお話したくて、小屋裏に入れるように、太らないよう注意しています。
診断の帰り道、気になっていた神社に寄ってきました。
伊奈神社です、須走にきてここを知らなかったら怒られますよね。
すいません、初めてお参りさせて頂きました。
もっと怒られるのが、伊奈半左衛門忠順公をよく知らなかったことでしょうか?
早速ウィキペディアで調べたこと、引用したことを紹介します。
宝永4年(1707年)11月に発生した富士山の噴火は実に620年ぶりの空前の大噴火で、現在も富士山の東南斜面に巨大な噴火口を残し、盛り上がった部分は宝永山と呼ばれる。約半月にも及んだ噴火により、小田原藩の全領約10万石のうち、6割が大量の火山灰に埋まり、遠く江戸でも2寸積もったという記録が残る大被害となる。
忠順はこの噴火に対し、砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、主に川底に火山灰が堆積していた酒匂川の砂除け、堤防修復などに従事した。しかし、もっとも被害の酷かった駿東郡足柄・御厨地方へ幕府の支援が一切行われず、59もの村が「亡所」とされ、放棄され飢餓に苦しむ者が続出している悲惨な状況となっていた。忠順は酒匂川の改修工事に被害農民を雇い入れることで生活の安定を図り、農地を回復させるための土壌改良にも取り組んだ[2]。忠順は復興開始から4年後、事業半ばで死去。墓所は源長寺(現在の川口市)。戒名は嶺頂院殿松誉泰運哲翁大居士。
忠順の救済により救われた農民たちは、その遺徳を偲び慶応3年(1867年)に祠を建て、その後、須走村(現在の静岡県駿東郡小山町須走)に伊奈神社を建立し忠順の菩提を弔った。伊奈神社には忠順の像も立つ。大正時代になって忠順の業績を称えて従五位下に叙せられている。
ウィキペディアって、すごいですよね、エンターキー押したら、パット出るんですよ、詳しい資料が勉強出来ました。
皆さんも、近くにいらしたら、ぜひお参りしてください。
立派な神社でした。寄って良かったです。
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